こんにちは。ぱなしのお玲です。
最近、自分の中で大きな気づきがあって、「目の前が急に開けた」みたいな気持ちになっています。何かというと、
「定型発達って、ただ『世間の多数派』というだけなんだな。正しいとか、優れているとか、そういうわけではないんだな」
ということがわかったんです。
これって、私の中ではすごい大発見だったんですよね。
今まで自分の障害に苦しんで、「こんな障害がない人たち(=定型発達)が羨ましい」と思ってきました。けれども、今は羨ましい気持ちはあんまりありません。
これってつまり、自己受容が進んできたってことなのかなと思っています。
だとしたら、すごくいいことですよね。
自分が劣った存在なんだと思ったり、自分を責めたりしなくて良いんです。ありのままの自分を、より好ましく感じられるようになりました。
それにしても、どうしてそんな心境に至ったのか、というのが気になって、少し考えてみたら、いくつか思い当たることがあったんです。
①障害者雇用への転職
前職の、一般採用の正社員という立場は、けっこう大変だったんですよ。数字(成果)を厳しく求められるお仕事だったので、ヒーヒー言いながら毎日仕事していました。
それが、今年の4月に障害者雇用に転職したら、とっても楽になったんです。仕事内容とか職責とかももちろん軽くなったんですけども、「無理そうなことは応相談」っていう合理的配慮が思ったよりもすごく楽で。
初めて自然体で呼吸ができるようになったような感覚を味わっています。
今まで、だいぶ無理してきたんだなというのがハッキリわかりました。きっと無意識のうちに常に緊張を強いられてきたし、自分の特性を「直すべき対象」として見ていたりしていたように思います。
でも、障害者雇用では自分の特性を前提に環境が整っているわけで、「初めて無理せず自然体でいられるようになった」んです。
この「自然体でいられる」っていうのが、今回の気づきには欠かせなかったのかなと思うんですね。そのおかげで、「自分以外」をじっくり観察する心のゆとりができたのかなと思うのです。
②「定型発達なのにおかしな人たち」との出会い
そこに次のステップとして出てきたのが、「えっ、あなた定型発達なのに、なんでそんなことするの?」という経験。
落ち着いた環境で観察してみると、定型発達のはずの周りがおかしな行動を取っていることに気がついたんです。
先日のブログで、こんなことを書いています。
最近なんだか私、変な人との遭遇が多いんですよね。
- 婚活中なのに、トレーニングウェア以外の服を全部捨てた女性トレーナー。
- 猫を3匹飼って、2匹を手放した友人。
- 私の発言を勝手に派遣さんに伝えて「さぁ、これでわだかまりもなくなったでしょ?また仲良くしてあげて」などと言い出す課長。
あれぇ?
世の中って、こんな感じだった?
変な人が、多すぎやしませんか?
定型発達の人って、もっとこう、ちゃんとしているのかと思ったら、そうでもないですね。障害を抱えずに生まれてきたというすごいアドバンテージを、いまいち活かしきれていない感じがします。私から見たら、非常に残念。
定型発達って今まで優れた存在みたいに思っていたけども、どうやら違うみたいだぞ、という気づきがここであったわけなんです。
③SNSで他人を叩く「定型っぽい人たち」
さらにXをやってみたら、「叩いても良さそうな人」をターゲットにして激しく攻撃する人たちに出会いました。
過激な言葉で他人を批判するコメントをしている人が多くて、びっくりしたんですよね。もうね、あれは言論の自由というより、イジメに近いですよ。
だから「これは私の考える『正しい人』とも違うな」と思ったのです。
そこから考察を深めていったら、「定型発達って、ただ『世間の多数派』というだけなんだな。正しいとか、優れているとか、そういうわけではないんだな」という大発見に至った、という次第です。
定型発達と、精神的な成熟は、全然別の話でした。
定型発達でも精神的に未熟な人はいるし、
発達障害でも精神的に成熟した人はいるんですよ。
だから本当に「定型発達=多数派」という意味合いしかないんだなぁ、ということに思い至ったのでした。
まとめると、
以前の自分:定型社会の中で、ずっと「適応」しようとしてきた。
↓
転職後:「ありのままの自分でいられる」環境に移った。
↓
観察が始まる:心の余裕ができたことで、他者を俯瞰的に見られるようになった。
↓
違和感:「定型=正しくて優れている」という前提が崩れる。
↓
気づき:「定型はただ多数派なだけ(人としての成熟は別問題)」
という流れなのでした。本当に、無駄な経験ってないですね。
以上、
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
いつも感謝です(人•ᴗ•♡)