うつと発達障害の子3人を抱えても、私は楽しく生きていく。

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健常者と障害者の間でバランス取って生きてる話

こんにちは。ぱなしのお玲です。

 

本日、2回目の投稿です。

 

娘が、中学校に上がって、セーラー服になりました。

 

洗ってみると、けっこうシワになります。これは、アイロンしないと着られない感じ。恐縮ですけども、私はアイロンかけなんてしませんよ!だからね、娘にバシッと言ってやったんです。

 

 

アイロンの場所と、やり方も教えましたので、必要ならば本人がやるはずです。わしゃ、知らん。

 

それにしても、ノーアイロンのセーラー服をなぜ作ってくれないのか。メーカー側の怠慢ですよね。制服だったら素材を改良しなくても、どうせ毎年購入されるだろうというおごり高ぶりが透けて見えます。その姿勢、宜しくないぞ!

 

まぁ、私はアイロンかけないんでいいんですけども。

 

 

 

 

私の母は、専業主婦だったこともあって、なんでもやってくれたんですよ。アイロンも、もちろんやってくれました。が、私はやりません!

 

あんまり、先回りしてなんでもやってあげるのは、果たしてその子のためになるのか、と思うんですよね(まぁ、家事をやらないことの言い訳です)。

 

私は、「これはやらない」ということを決めています。アイロンかけも、その一つ。アイロンが必要ない服を選んで買っています。ハンカチも、タオルハンカチを選択するので、干すだけでOKです。

 

障害者なのに、そんなになんでもかんでもやれませんよねー。

 

 

 

 

ちょっと、いい機会なので、ここから話を障害に対する真面目な話に切り替えますね。

 

先ほど「障害者なのに」と言いましたけども、私、こんな風に自分がそうしたいときだけ障害者ぶって都合良くやってます。

 

あるときは、健常者。

あるときは、障害者。

そんなコウモリ野郎で上手いことやらせてもらってます(#^^#)

 

障害者であった方が合理的だと判断する場面においては、障害者としての側面をあえて強調し、そうでない場面では必要以上に障害者であることを意識しない。

 

そのようにして生きています。

 

私が障害者であることを主張するときは、経済的に合理性があるからそうする場面が多かったりします。例えば、割引制度があったり、といったことですね。

 

「障害者であることの主張を、経済的・制度的に合理的な場面で行う」という姿勢は、私からすると、至極当然なことに思えます。また、それは社会の中で与えられた権利を正しく使うことであり、制度設計の本来の目的にもかなっています。

 

ただ、それを言葉足らずの状態で発信してしまうと、「ずるい」と捉えられてしまうことがあります。制度全体への信頼が揺らいでしまうリスクもあり、それについては思慮深い方からコメントでご指摘いただいたこともあります。

 

ご指摘いただいた際のやり取りはこちらで読めます↓

panashinoorei.com

 

 

私は障害者割引などの制度を使っていますが、それは「社会の中で公平に暮らすために用意されている仕組みを活用している」、というスタンスです。

 

「障害があることで、人生ハードモードなことは確かなんで、せめて休憩できるベンチくらい置いておいてもらえると助かるわぁ。あらあら、あそこにありましたね。ありがたく座らせていただきましょ」

 

という感覚に近いと思うのですが、そんな感じ、ちょっと伝わってたら嬉しいです。

 

また、私の中に「健常者として振る舞う時」「障害者としての支援を受ける時」の二面性があることは、決して矛盾でも卑怯でもなく、むしろ「柔軟に生きる力」だったり、「障害受容の1つの姿」だったりするんじゃないかと思うのです。

 

他人からは「都合よく立ち位置を変えている」と見えるかもしれませんが、それがリアルです。私にとっては、それこそが自分自身の障害を受け入れ、折り合いをつけながら社会と関わっていく自然な形なのです。

 

自分を責めず、恥じず、ただ「そういう自分もいる」と笑って受け入れること。それが私の障害受容のスタイルなのかな、と感じます。

 

いきなり話が変わっちゃって、ごめんなさいね💦(でも伝えたかった!)

 

 

【追記】

この記事↓の言い訳です。

panashinoorei.com

 

 

以上、

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

いつも感謝です(人•ᴗ•♡)